だきらぼ

だっきーがお送りする考え方と思考の場

僕が僕でい続けるための迷走

こんにちは、だっきーです。

 

私たちは無数の選択を連続して行っています。その行きつく先を迷走史として綴りました。

 

要約

膨大な人生の選択肢において、私たちは、常に連続として選択肢を選ばなければいけない。その選択先が遠回りになるのであるならば、人生としてはあたりを引いたものだ。その分多くの経験が得られるからだ。しかし、時には「空白」の選択肢も存在するだろう。その分岐点を選んだその日からいつ平常なルートへ戻れるかわからないその未知なる選択肢を選んでしまうことも人生なのだ。

 

 

そう、人生とは膨大な分岐点が用意されているが、長い年月から見ると収束し、そして一つの線として人生が終える。これは、自分が見る人生を選ぶことを考えるのと、相手が自分の人生を楽観してみていることで見え方が変わるし、「経験」や「度胸」というものも影響してくるものだ。

 

だからこそ、その時に選んだ道が正解とも不正解とも言えずに分岐しては収束する。枝に絡まるツタのごとく強制力のある戻し方もすれば、自然と今自分が踏んでいる道に落ち着きを感じ、そこを正規ルートとして歩み始めれば、やはり線は右往左往しようが1本だけである。

 

だからこそ、選択肢というのは無意識に私たちは選び、だけども必要な場面では意識的に選んでいるものなんだ。わかりやすく言うと、志望大学は意識的に選ぶけど、志望大学を決めた場所は、家のベットの上でも、教室でも、図書館でも何でもよかったのだ。その場に何かしらの決め手となる思考が収束し、そこに決定というものが生まれたんだ。

 

選択肢には「経験」や「度胸」というものも少しばかり影響することをちらっと言ったのでその説明をしようと思う。経験は過去に似た出来事があったのかどうかを類推し、度胸は現在の自分の力量以上への挑戦をすることだ。選択するというのは、情報戦であり、過去に類似した体験があれば同じような選択をして無難なやりとりをすべきだし、前回と今回が異なる(自分の能力を信じて)場合は挑戦することを選択するのだろう。

 

「空白」という選択肢も現実では存在し、ゲームでいうバグが発生することもある。今まで平常な運転を行い、日常を楽しんでいたとしても気がついたら「空白」に存在するということもあるだろう。日常とは異なる非日常だけども他人から見れば「日常」にいるのだ。

 

空白も時を過ぎ達観した視点で見れば、やはり収束し、1本の人生なのだけども、現実の拡大している私にはやはり非現実なのだろう。もちろん空白の中にも選択肢が存在するが、正規のルートなのかわからない私には「経験」や「度胸」というものが足りなかった。

 

空白の中で適切な処置ができれば、それはそれと道が開かれただろうが、私が選んだのは選択肢を戻ることにしたんだ。戻ることも大切だが、人生は有限で時には戻ることもできない。空白を味わうことができたのもこの人生において有意義だったのだろうな。とふと我に戻ったのであった。

 

 

この文章をふと思ったのは、つい30分前で、私の中に残る苦虫のような思い出が圧縮して出てきたからなのかなと思った。人生100年世代といい、医学の進歩から私たちは、長く生きれるようになってしまった。むしろ、長く生きることで若者が職に就けないなどの問題が出てき、挙句の果てには、生きることを原始的に考えなけねばならないのでは..と思いつつもある。そんな日本だ。

 

確かに、食べ物には困らないが(作りすぎている)、教育や福祉、政治といった大人たちが解決しなければいけないことを放棄しているのが現状なのだろう。かといって、大人たちは自分と関係ない(教育)ことに手を付けず、次世代への教育を忘れている。こうやって書き続ける私もいずれ、そのような大人になっていくのだろうと思うと悲しく思う。だから、空白の選択肢を選び、生きづまった世の中を達観してみることをしたのだろう。

 

若者ももちろん、世の中を変える権利は存在するし、政界の人間が率先して次世代への教育をしていくことで循環器のごとく世の中は回り始めるだろうに。

 

ふと文章を書き続けるとすっきりとしましたとさ。